豊饒

彼岸も終り、明日からは 10月。 朝晩の冷え込みはすっかり秋である。田圃の稲も本格的に色づき始めた。実りの季節の到来。
今展示中の作品に「豊饒」と題するものがある。この作品の形が実にユニークで、何処からこんなフォームが生まれたのだろうと展示開始いらい考えているが、未だに分らない。多分、俊造は、そんなこと考えんでもいい、見たまま、感じたままでいいんじゃあ。と答えるだろう。
ただ、この色合いは万物の稔りの季節を表しているのではなかろうかと思う。特に黄金色の稲穂の波打つ様を眼をにすると、その思いは強くなる。こんなことを、生きている時に云うと、「兄貴がそげえ想うんなら、それでいいんじゃ」と返ってくるに違いない。解釈を押し付けることはしなかった。
話は変わるが、少し涼しくなって来館者がいくぶん増えたようである。 ( 省 )
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草を刈るといいことがある?

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美術館から500mほどのところに、県内ではわりと有名な大神ファームがあります。そこは、バラとハーブを楽しめます。ここを訪れる人は我が美術館の比ではありません。しかし、最近、大神ファームの帰りです、と言いながら当館に立ち寄ってくれる方が時々あります。大神ファームの帰途、目にとまるように看版を立てています。最近その周囲に雑草が生い茂り半分見えなくなっていました。そこで、今日はその周囲の草を刈りました。小さいながら凛々しく立つ看板にちょと感動しました。作業を終えて帰宅後、伴侶に、今日は草を刈ってよく見えるようになったから、来館者があるよ、と話しました。
夕方、野良作業(一応農業者なのです)を終えて帰宅したところ、午後になって2組5人の来館者があったとのこと。そのうちの一人が、看板を見て寄ってみようと思ったとのこと。早速、草刈り効果があったのかもしれない。看板も喜んでいるだろう。(省象)

小さな美術館のチャレンジ

 芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋、瞑想の秋、収穫の秋、自省の秋。9月の声を聴くと、もういつまでも昼寝をしているわけにもいかないと、自省するこの頃である。とにかく今夏は言葉にならない。某政権党のキャッチコピーに、日本を取り戻す、とあったが、まず最初に30年ほど前のほどほどに暑い夏をとりもどしてほしい。そして、夏の夕立も。そういえば、一度も夕立がなかった年も珍しい。
 花の木だよりの更新を怠っていたら、心配してくださる方がいて連絡をくれた。PCの調子が悪かったのと、暑さのせいにして一寸サボり癖がついていた。反省。     
 美術館を開館して一年。俊造の作品を通して、人の顔が違うように、一人一人の感性も異なると云うことをつくづく感じさせられる。展示された作品について、各自の受け取り方や、好みが様々に分散する。その感想や意見を聞かせてもらうのがとても楽しい。
 僕らは日常的に目にするもののカタチを、俊造の作品と無理やり合致させようと試みると、違和感が生まれる。もののイロやカタチはある時点の一時的現象で、それはすべて仮の姿にすぎないのではないか。美術表現は既成のイロやカタチに囚われる必要はないことを実践していたのだろう。秋になって、頭がすこしクールになったら作品をとおして俊造と対話をしてみよう。
 小さな美術館のチャレンジはこれからも続く。 (省象)