絵画や彫刻に題名があること自体は、特に違和感はない。私の乏しい経験からすると、題名と作品は一目で一致することが多い。たとえば「静物」「港の風景」「里の秋」「廃線」「読書」「幼子」とあれば、題名を聞いただけで絵が自然に浮かんでくる。展覧会を覗くとよく経験することである。それはある種の予定調和をしており、題と作品がうまく合致していることで観る者に安心感を与えてくれる。そして、写実的によく描かれていると、観る者もそれ以上考える必要はなく納得する。多分これらの作者にとって、作品とは描かれた絵そのものであり、題は付属物か説明文に過ぎないのだと思われる。ぼくもそれになんら違和感なく、当然のことと受け止めてきた。
ところが俊造の作品は題名が添え物ではなく、絵と題が一体化して作品を構成しているようだ。題に手抜きをしない絵描きとでも云うのがいいのかもしれない。俊造の個性なのかぼくの乏しい知識ではわからないが、題をおろそかにしない作家といえるだろう。それだけに、題名一つにぼくらが考える以上のエネルギーを傾注している。来館者の感想で「絵もさることながら、この言葉がすごいですね」と言われる方が稀にいる。伝わっているのだ。
展示室の正面に掛けてある絵を見て、『和光同塵』の意味を改めて調べてみた。才能をひけらかすことなく俗世の中に塵となり溶け込むこと、である。この絵は花の木のアトリエを完成させ、そこを定住の地として住み始めた直後に制作している。今にして思えば、俊造はこの作品をとおして、それから先の自分の生きざまを決意表明していたのだと解釈できる。
たしかに、俊造は地域の人々との付き合いや、田舎特有の風習を忌み嫌うでもなく淡々と過不足なくこなしていた。しかし、彼が絵を描いていることを知っている人は多くはなかった。この絵に込めた俊造の思いを、今頃になって理解しながら眺めると、なるほどと思う昨今である。ただ、彼の才能がいかほどのものであったかを測る能力を持ち合わせていない僕が言うのも変だが、一見の価値がある作品である。実はそんな理屈抜きでこの絵を観ても愉しめる作品である。 (省象)