風景の誕生

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佐藤俊造の遺作展第三部が5月30日から始まった。
大きな七作品が展示されている。その中の一つ、正面の壁を占めている不思議な作品は、鑑賞者の心や考え方を様々な方向から刺激してくる。
 風景という言葉で、私たちは波穏かな広い海の向こうに島があり、帆掛け船が浮かんでいる眺めや、草原の彼方なだらかな丘に家が点在して森や林の上に青い空が広がり、白い雲が浮かんでいる、そんな景色を思い浮かべる。あるいは古い街路に沿って立ち並ぶ西欧の街のたたずまい等である。
 これらは極めて具体的な風景である。もしこれらを写真のように絵に描けば大勢の人が、そうだねと頷く典型的な風景画になる。しかし展示されている作品は少し異なった切り口から作成されている。一言で云えば [具体的な物だけが風景ではない、意識されたものが風景だ] という事になろうか。
 作品は縦横2m×3mの大きなものである。その画面に黄や緑、青や赤の明るい色が、茂った木の葉のように隙間なく、一見無秩序にしかし一定のリズムで塗られている。
平面いっぱいに広がる意味の分からない迷彩は観ているだけですぐに飽きる。あたかも広い海に小さな波がたくさん描かれているようなものだ。退屈である。では、退屈しない単調にならない重み付けとは何だろう。
 それこそが美術、芸術の本質に関わってくるものではないか。
綾のない布地、色調のない下地などは見ていると直ちに退屈になる、つまらない、欠伸が出る等、身体的な拒否反応が出てくる。その時この布地に一本の明瞭な線、あるいは真紅の点がしっかり打ち込まれていたならば、いやでも人は、それは何だろう、何のつもりだろう、それとも何かの間違いか、などと考える。この時、人は既にその点や線に捕らえられている。眠気は吹っ飛び、意識はその対象に釘付けにされたのだ。脳はその点や線を巡って活発に活動している。
 この脳の働きを知る作者は作品の上に一工夫を凝らしている。
 作品の真ん中から少し上寄りに、ステンレスの細い棒とアクリルの薄い板を組合わせて作った一体のオブジェを組み込んでいる。それは多くのアンテナを備えた通信衛星のような姿をしている。この立体オブジェから前方に突き出された肢のような長い四本のステンレス棒は四方に放射される銀色の光線だ。
 立体のオブジェ本体を形づくっているアクリル板には赤や青の彩色が施されて居る。上方からの照明を受けて、オブジェは己が立体である事を主張して明るい迷彩のカンバスの上に黒々とした影を落としている。
 この昨品は画面中央の立体オブジェの黒い翳と四方に放射される銀色の光がなければ、ほとんど作品として意識されることはないだろう。もしかすると作品その物さえ見過ごされてしまうかもしれない。あの壁面には何か大きな画が懸っていたなと言う程度の印象で。
 こう考えると画面いっぱいの明るい迷彩は背景、下地としての役を演じ、立体オブジェは意識を覚醒させる綾又は点か線の役割を持っている。平面の上に立体のオブジェが組込まれると、観る人の意識は必ずそこに行く。同時にオブジェ自体も立体であることを主張し始め、迷彩画面はオブジェをしっかり下支えするという本来の役割を果たす。この時初めて作品は鑑賞者の前に、その全貌を以って立ち顕われる。
 意識されるものと意識されないもの、意識されるものは風景として存在するが、意識されないものは風景として存在しない。
 その風景として存在するものを支えている背景、下地、微かな物音など、あまり意識されない無意識の世界に属するものにまで意識が及び光が当たるとき、それまで風景でなかった物が風景として意味を持ち、立ち顕われる。それこそが「風景が観る人の内に誕生した」瞬間である。意識されなかったものが明確に意識され始めるその刹那を、色と容に定着させた作品がここに提示されている。
作品の名は 「風景の誕生」。

2013年 6月10日 佐藤 孝嗣(長兄)

風景の誕生” への2件のコメント

  1. 俊造の絵を見るとき、いつも深いところでざわざわしたものを感じていたけれど、その感覚が何に由来するのかわからなかった。
    中でもオブジェと一体化させた作品は特にわからなかったし、悩まされたものであるが、
    作者の意図するものが十分に理解できないという、イマジネーションの欠如に対する自分へのいらだちと寂しさだったのかもしれない。
    ところがこの感覚は、孝嗣くんの「・・・迷彩は背景、オブジェは意識を覚醒させるもの・・・」
    という文章を読んだことで払拭された気がする。

    以前省象くんは「新しい表現者と同時代を生きたことの幸せを思う」と言っていたけれど、(私も同じ気持ちです)「無意味なものが意味を持つとき風景が見る人のうちに誕生する」という孝嗣くんの透徹な目によって表現された文章にも深く感動しました。
    一見難解だけれど、二度三度読み返すといつの間にか理解できている。
    見事です。

    • 全く同感です。
      今回、展示した日にこの作品を前にして、孝嗣兄から改めて「地 (背景、下地、意識されないもの)」と「綾(表に現われているもの、立体、意識されるもの)」の関係、という言葉を聞き、とても自分の中で納得いくものがありました。
      そして、この関係をより深く文章にしたものをFAXで受け取り、じっくりと読ませていただき、ここに一字一字打っていきながら何だかとてもあったかい気持ちになってきました。
      まさに「風景が観る人の内に誕生した」「風景として意識され始めた瞬間」を感じます。

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